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美しい自然・寺社・文化財の町 加茂

浄瑠璃寺TEMPLES & SHRINES

     
名称 小田原山 浄瑠璃寺 (九体寺)
年代 本堂 嘉承二年(1107年) 三重塔 治承二年(1178年)
銘文抄
所在地 木津川市加茂町西小小田原山
アクセス 浄瑠璃寺バス停すぐ
      

加茂町の南部、浄瑠璃寺や岩船寺のある南当尾の一帯は、古く「小田原」と呼ばれ、仏教文化の花開いた所であった。東小田原は随願寺、西小田原は浄瑠璃寺といわれるが、それがいつしか「東小」「西小」という地名で現在に至っている。

このあたりは山城国の中でも最南端になり、大和国に接し、奈良まで10`足らずで行くことが出来る。そのため、文化的にも経済的にも完全に南都の圏内に包摂され、古代から中世にわたって、南都の諸寺社の強力な支配下に置かれていたが、奈良と京都を結ぶ主要街道から東にそれた山懐に位置していたこともあって、戦乱の影響は少なかった。
浄瑠璃寺は、天平11年(738)行基によって開かれたという説もある。
浄瑠璃寺は、小さい草庵のようなものから出発した。

当初は薬師如来が本尊であった。この薬師如来像は現在庭園東側の三重塔初重に安置されている。薬師如来の浄土が東方に位置する瑠璃光浄土であることをあらわしている。
寺号の「浄瑠璃」というのもそこから来ているが、現在浄瑠璃寺が本尊としているのは、九体の阿弥陀如来像である。
浄瑠璃寺では、嘉承2年(1107)それまであった本堂を取り壊し、新たに本堂を建立している。これが現在の本堂であるが、翌3年に総供養が行われ、東小田原の阿闍梨迎接房(ゴウショウボウ)が導師として参加している。迎接房は興福寺に入り、学問をもっぱらにした後、にわかに菩提心を発起し、小田原の寺院に隠遁して阿弥陀念仏に励んだ。
この後応保2年(1162)には、勝宴を浄瑠璃寺別当に補任する藤氏長者宣(藤原氏の氏の長者が発する御教書)が、興福寺別当恵信に当てて出されている。この興福寺別当恵信は浄瑠璃寺に深い関わりを持った人物である。藤原忠通の子で、興福寺一乗院に入り、当初覚継と称した。

久安6年頃、小田原に止信していた延観の草庵に隠遁していた。小田原に隠遁している間、浄瑠璃寺を一乗院の祈願所にしたり、寺院の境界を定め、池を掘って庭園の整備を行った。寺院としての環境整備は、九体阿弥陀堂と浄土庭園の一体化を指しており、現在見られる浄瑠璃寺の景観は、基本的にこの時完成した。

恵信の築いた基礎は大きく、治承2年(1178)京都の一条大宮から三重塔が移築され、浄土庭園が完成したのをはじめ、堂舎のみならず多くの仏像が造立された。この後、浄瑠璃寺は恵信との関係によって、興福寺一乗院と本寺末寺の関係を結び、明治初年まで続くことになる。

この関係は、浄瑠璃寺が藤原氏の氏神春日神社ともつながりを持つことを意味しており、 文治4年(1188)には寺の鎮守として、春日大明神と春日若宮の神木・神鏡を勧請している。

浄瑠璃寺という名から連想されるのは、優しさ、清らかさ。その名のとおり、緑に包まれた三重塔と阿弥陀堂が美しい池を挟んで東西に向き合う境内は、清浄そのもの。

浄瑠璃寺という名は、薬師如来の浄土である東方浄瑠璃世界にちなみ、本堂に9体の阿弥陀如来坐像を安置することから九体寺とも呼ばれた。本堂は平安貴族によって京都を中心に次々と建てられたが、ここは現存するわが国唯一のものである。

参道の西側にはアシビが茂り、早春には白い花をつける。

◎九体阿弥陀如来坐像

木造、像高:中尊、脇仏、平安時代の作で、国宝。 中尊は、来迎印を結ぶ丈六の阿弥陀如来坐像。左右に四体ずつ,半丈六の阿弥陀如来坐像が定印を結んで横一列に並ぶ。九体がそろった平安時代の唯一の遺例である。

◎地蔵菩薩立像

木造、像高157.0p、平安時代、重文。 腹部に結んだ紐を腹帯とみて、子安地蔵と呼ばれる。左手に如意宝珠を乗せ右手は与願印。 額の白毫には水晶を埋める。

◎本堂前の石灯篭

重文  石灯篭  石造り、高さ215p,室町時代,重文。  三重塔の下、池のほとりに立つ六角の石灯篭は、薬師如来に献じられる明かり。1366年の造立で、願主は阿闍梨祐実との銘がある。

 

◎三重塔  

総高16.08m、平安時代、国宝。  1178年(治承2年)、京都一条大宮から移築されたと伝える。京都府でただ一つ現存する平安時代の三重塔は、小規模で美しい。心柱は第二層で止まり、初層内部後寄りに薬師如来坐像を安置する。

◎吉祥天女像

木造、造高90.0p、鎌倉時代、重文。 中尊の横に安置された厨子に納められた秘仏。除災増益を司る天女で、吉祥悔禍の本尊として  祀られた。1212年の作とされる。

 

◎薬師如来坐像

木造、像高86.4p、平安時代、重文、三重塔に安置。  三重塔の本尊として祀られる秘仏で、浄瑠璃寺のもとの本尊。左手に薬壷(ヤッコ)を乗せる。  製作時期については1013年と1047年説がある。

◎不動明王二童子立像

1311年に建立された護摩堂の本尊であった。本堂の左脇壇に安置。  向かって右に「コンガラドウジ」左に「セイタカドウジ」を配した三尊像で、いずれの像も  眼は玉眼。不動明王の頭部は暗赤色,肉身部は群青色であるが、ほとんど黒に見える。

◎四天王

四天王は、持国天と増長天の二天で本尊を守る。  
広目天は東京国立博物館、多聞天は京都国立博物館に寄託。
持国天立像・・   木造、像高169.5p,平安時代,国宝。体の動きは控えめで、落ち着きを感じさせる。
馬頭観音立像    木造、像高106.5p,鎌倉時代,重文、奈良国立博物館寄託。 頭上に馬の頭を乗せるのは、馬が草をむさぼるように諸悪を消滅させる菩薩であるため。四面八臂三目で憤怒の面相に造る。明治時代の修理の際に発見された胎内銘文から、1241年に良賢、増金、観慶の南都仏師が製作したことがわかった。